Being Nagasaki~ 日本バプテスト連盟 長崎バプテスト教会 ~                           English / Korean / Chinese

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「原子爆弾」悲惨記 太田 和子

 八.九 この日は朝から切れ切れの雲がとんでいた。十時頃空襲解除、ホットして皆な壕から這い出した。今の間にと母はいそいで出て行った…。「爆音がするから中に入りなさい」ミシンを止めて博子は外で遊んでいる二人を呼んだ。智子は火鉢のそばに姉は奥の間に寝ている。玄関から数メートルはなれた所から二人がかけこみ坊やを抱いて博子が玄関から茶の間に一足かけたとたんピカッ ウヮーン殆ど同時にマグネシウムのような白光と地の底を割ってゆすり上げるような大炸裂音。
直撃弾!と感じた時はもう身動きも出来なかった。

 「姉ちゃん アーン、姉ちゃん!!」
 「アッ、明子ちゃん!明子ちゃん!!」

 十分か十五分かして姉だけはやっと自力ではい出した。オッ!!家が木がすべてが破壊しつくされている。町が燃え出した。皆んなは、「宏ちゃん、明子ちゃん……」
 「姉ちゃん、姉ちゃん……姉ちゃんこっち、姉ちゃん出して……」
 「坊やが……坊やが頭を怪我している、坊やだけでも出して!…」
 「まって、江平が燃えている、今布団をかぶるから」
 「家は?」「大丈夫、燃えていない」

 姉ちゃんは安心させようとしてこう言うのだこれでおしまいだ。坊やを抱いたまゝ博子は最後の讃美歌を歌っていた。ひっぱりだしたお昼寝布団を水に浸して姉はこれをかぶってみた。
 火は次第に燃えさかり、親を求め子を呼んで石崖の下を右往左往する。
 「妹や弟が下敷きになっています。出して下さい。私は手をやられています。一人では出せません。手伝って下さい。」だがこの土壇場に立って皆はただ自分の子でいっぱいだった。明子はあれっきり死んでしまったらしい。

一、二時間たった。
 兵器から帰った山口さんがやっと来て下さって掘出しにかかると箪笥二つをのせた博子の足は急に痛みはじめた。
 出ようとする目の前に明子のお尻がある、でもそれはも早冷たくなっていた。山口さんは身体の具合が悪くなってそれっきりになってしまった。あとに残された智子は「姉ちゃん出して、早く!痛い!」と叫ぶ、二人で掘りにかかった。
 「壁土が落ちる、苦しい、息が出来ない」ボール箱のこわれを探して顔をおゝった。だが二人の力ではどうにも出来なかった。
 「お水が飲みたい」姉はどこからか三菱の印の入ったつぶれた弁当箱をさがして飲ませてくれた。

 四時頃か或はもっとあとで金比羅山の方から二人の中学生が下って来た。この二人の力でやっと出してもらった、智子の右足は折れていた。(以上博子及び智子姉の語りしを)この間の記事は後に…十二日大村より帰り、十三日香焼三人を見舞に行く。

 十三日 空襲ばかりで香焼島へ着いた時には十二時はとうに過ぎていた。病院から羅災者収容所(豊部隊)へ豊部隊で教へられた壕へはいって行くとまだ目なれぬ私の足下に「ア!姉ちゃん!!」髪をみだしやせおとろへて目ばかり光らせた智子。右手の岩肌にくっついて担架のまま…あの声!あの顔!今もなお、あざやかに残るあの声、あの顔こらえても、かみしめてもあふれる涙であり出そうにも言おうにも、すぐには思い出せない言葉であった。

 そこから十数メートル奥に姉と一緒に首をかたむけた坊やが担架の上に座っていた。
左耳は傷のため右耳より五分も下っている。顔全体がゆがみ痛々しくはれ上っている。「お母ちゃまは?」首をかたむけて、膝に抱きつきながら先づこう聞いた坊や。如何に戦とは言え、四才の子が……
 「お母ちゃまはお街にいってらっしゃるの、もうすぐ帰っていらしゃるから姉ちゃんと一緒に待っていましょうね、ね、おりこうさんね」やっとの思いで言葉に「ウン」とおとなしくうなづいて遂に最後までお母ちゃまを言はなかった坊や。
 口が殆ど聞けず、かたいものは全々だめなのでせっかく父がもたせてくれた南瓜や豆もよく食べられないので前夜一緒に泊った小母さんに貰ったと言う乾パンを私にも分けるといってきかなかった。昼食は壕中で粥又は飯と味噌汁(豆腐と干大根のようだった)戦災地の父や博子を思うと勿体ない御馳走であった。深い壕中に同じような否それ以上悲惨に見える羅災者が奥の奥まで闇の中に吸いこまれて異様な臭いがただよっていた。
 「昨日から十五分毎位に厠へ行くので困る」と言う姉はひどくつかれた顔色をしていた。このまゝでは帰れない一晩泊って翌朝の一番船で帰る事にした。

 夕方解除になって日ノ浦分院に移された二人の子にたった一つの寝台が与えられた。前後左右皆鼻も口も見分けのつかぬ位の火傷が多く異臭を放ち、やけた鉄筋の家はムンムンと暑く、蝿がブンブン飛んでいる。各ベッドの間には家族が動き、階下から直接裏山へ掘った壕の中にはこれまたあふれるばかりの羅災者である。泣く、わめく、うめく…夜になっても灯りなく蚊帳なく、やけた建物は熱気をはき、やっと涼しくなった頃は夜はしらじらと明け始める。
 姉は厠に起きる外は殆ど眠ってばかりいる。十四日になっても帰る事は不可能である。段々回数が増して便所まで行くのにさえ困難を感じるらしく帰ったと思うと又ゆき少し長いなと思えば二回続けて行って来たと言う。

 食事は重湯少々、夕方吐気をもよおし、ゲッゲッと二へん程黄色いものを出し、三べん目に一尺程の回虫を吐出し更に小さいもの二匹、自分でも驚いた様子だった。
 日一日と衰弱し、二、三日して吉田さんが便器を作って来て下さると喜んで使用し始めた、もう便所まで行く力もなかった。

 夜など寝台の上り下りさえ困難だと言って寝台の間に坐布団を敷いて寝ることもあり、卵白に血で色をつけたようなものをジャア、ジャア下した。
 唇から口中が白く化膿したようになっている。消化剤と虫下しをもらったが虫下しは下剤が入っていると言うので一服で止め柘榴の根の煮汁がよい虫下しであるから吉田さんから貰って来いと言ってきかぬ。無理にも貰いに行けと言うが、香焼島には柘榴の木はなかった。生水は絶対に飲まず、水中の細かいゴミでも、ジーッと沈めてしか飲まぬ位注意深く厳格な姉だった。
 しかし又他の二人を看病するのに気をつかって死の前夜まで一度も私に手を焼かせぬ姉であった。

 坊やは傷の化膿をおそれて冷そうとするけれども横になるのを嫌がるのと、水の入手困難、香焼の水のぬるさのため日に日に顔のはれ方が変わって遂に化膿してしまった。
五分でもはなれると泣いて私を待つ姿はいぢらしく、四六時中あおいでやらねば暑がって困った。

 父のもたせてくれたのと、私が来る時船の中で中さん(女学校の同級生)にもらった茶飲み一杯程の砂糖を楽しんで少しづつ重湯に入れ、お茶に入れして喜んでいた。父が来るとひどく喜んで膝からはなれず死の前日等父の居る間はひどく元気で、とても明日にも死のうとは思えなかった。

 ひどく父の後を追って階段までおくり窓からシッケイをした後、海を行くポンポン船を見てさっき父の教えて呉れた「早く治って、あの船で帰る」と言う事を喜んでいた。しかし身体は熱にやけ、傷は化膿してすでに顔面神経を切り膿は耳から流れ出していた。
智子は骨折のため副木を腰から当てられて寝たきりであったが割に元気で下痢もせず足がうまくなおる事を考えて居た。食事は何に彼にと嫌わず看護婦さんや寮母さんからも特に可愛がられて割に朗らかであった。

 智子と坊やと一緒の寝台の時は坊やは落ちる落ちると言って寝台の真中に痛い方を上にして海老の様にまるくなって寝るので困って居た。
 田ノ浦に移った翌日から吉田さん、平山さん、浜口さん、笠間さん等お見舞に来ていただき色々のお世話にもなった。空報がなって誰も迎えに来ない。

 何と階上も壕を見做すという。可愛そうにこの暑いのに智子や坊やは爆音の度に布団をかぶらなくてはならぬ。窓にはガラスもないのだ。目の前で急降下するのが寝ている智子にも見える。智子の足の治療上壕には移せぬという。
 坊やのそばがはなれられないので洗濯は真夜中になる、極くよく眠っていそうな時を見て二、三枚つかんで真暗な浴場に走り帰って来てあおいでやったら、又飛んで行く昼間窓にならべて乾すけれど終り頃になって汚れものが多くなって来ると間に合わなくなって来た。

 「重大放送の内容は?」
 「何を言っているのかさっぱりわかりません」でもその顔はいかにも重く沈んでいた。 翌日、「無条件降伏したらしい」しばらくは唖然として何の感情もなかった。
 姉! 妹! 弟! うそ! うそ! そんなことがあるもんか!
 デマだ、きっとデマだ。

 汀寮の挺身隊は昨夜の中に引揚げた。応徴工は解散になった。婦女子は待避令が出た。患者は縁故を頼って早急に引揚げよ、引揚げ先なきものは江川病院に移す、この島は危い。米兵が来たら逃げ場はない。、今日、明日にも米兵の来そうな話である。

 三人の病人
 担架が三つ
 人が十二人
 応徴士解散
 浦上は戦災
 神代は汽車に乗れない????………

 父との連絡は取れない、どうしてもだめなら四人一緒に死ぬ覚悟をした。
 十四日、父が帰って行くと坊やは急に悪化した。父に坊やが悪いことを言っても父のいる間は元気だったのでそれ程とも思わないで帰ったらしいのに、顔面神経の切れた顔は眠っても片眼と口半分を開けたまゝの異様なものである。その夜から妙な運動をはじめた。頭を中心にして時計の針のようにまわる何度も寝台から落ちそうになった。言葉もやゝ明瞭をかくようになった。
 十八日になるとスプーンから水を飲むことが困難になりそれでも昼頃までは「上手、上手、上手にのめた」と言ってやれば笑って喜んでいたのが夕方には吸うことさえも忘れてしまって何をやっても受付けない。スプーンを口にもって行くと強引に口をつぐんでギリギリと顔をひきしめ、何とも言えぬ表情になる。智力はグンと低下して赤ん坊のようになったように思う。この日午前中までは不明瞭でイライラしながらも、ものを言ったのが午後は殆んど駄目になった。

 膿は耳からどんどん流れ出す、時迫る! 医者は帰っていない。一人では心細い、笠間さんを呼びに行ったがその人がほんとうに最後を立会って(?)もらう人になろうとは…
帰って見ると小島とか何とかいう労務課の保険医が来ていて下さった。姉はしきりに色んな事を聞いている、坊やは今夜が危いと言う、今夜一晩どうにかして……明日は又お父ちゃまがいらっしゃるから……が刻々に悪化する。

やがて最後の水を求められて気がついたように、しかしあまりに早すぎた、もう少しは保つと思ったのに八時二〇分、小島、笠間さんと私にとりまかれ隣り合った智子と姉に守られて静かに息を引いて行った。すっかりやせた真蒼な顔は今までの坊やとは思えないものではあったが、驚く程美しく気高いものであった。オイタツコの小さな手を胸にくんで単衣から伸ばされた足も可愛かった。

 すぐ労務課に線香を取りに行き、坊さんを呼んでこられたので戦災者としてあとにも先にもはじめてのお経が坊やにあげられた。蒼い顔はまだやわらかな肌触りを持ちながら、次第に冷えて行った、白い布はかぶってもなお暑かろう、蚊もたかろうとあおいでやる夜だった。

 あゝ身を以て戦の苦しみをなめた坊や、四つの子がお母ちゃまとさえ呼べないでどうして一ぺん位お母ちゃまと呼んで私を困らせてくれなかったの、坊や、坊や明子姉ちゃんとお母ちゃまと一緒においで坊やが死に坊さんも外の二人も帰って行ってからの姉の要体は変って来た。
 

 夕方戦災後はじめての新聞をもらいに行く時も坊やは姉にあづけて行けたし、夜、小島さんが来た時もまだまだ元気で自分の病気の事を半時間以上も尋ねたりして、少しでも早くなおろうと努力しているかに見えた姉が「あたしも今夜死ぬ、坊やと一緒にゆく!」と口走り出した。抜け散る髪はボウボウとして血走った目はギラギラ光り、唇から口中は化膿し見るも凄まじい形相でもだえるようにこう叫ぶ。今まで起きて用をたすにさえどんなにか苦しい思いをし、欲しいものしてもらいたい事もあったろうものを、二人を看ている私に遠慮してか、一度も無理も言わず、世話もやかせず用便後寝台にあがれないでハッハッと苦しい息をつきながらも、だまって、しゃがみこんでいる姉だった。お見舞の人が来ても、父が来ても起きて目を覚まして話していることも出来ない位の時でも何とも言わず自分の事だけはやっていた。でもこの一日、二日便もやっと黄色を帯びて来たかに見えていた。「坊やも居なくなったし、今夜はどんな我侭でも言っていいから、そんなこと言わないでなおって」用をたして寝台にもどると熱が急に上り顔が真赤になり、動悸がひどく半時間経っても沈まらない。このまま死んで行くのだと言いもし、私もそうではないのかと思う。苦しそうに「今夜死ぬ、今夜死ぬ」を口走る中に又虫を吐き出すと、だんだん熱も下がり動悸も止んできた。

 「ホラ、このままなおるのよ」と言ってやるとやゝ安心したらしかった。が、もうその考え方は半分狂人じみて来て急に大声に叫んだりした。「血便をすると死にそうだ、私は血便だろう」「いゝえ便はほら、昨日からよくなったでしょう。文姉ちゃんもそう言って喜んだでしょう。」と言っても「いや血便だ」と言張って聞かない。わざわざ便器を灯の下まで持って行って見て来てやっても承知しない、そして「血便は助からないそうだ」とのみ言い「誰がそんなこと言ったの」「医専の生徒が」「いつ、いつお見舞いに来てくれたの」「夢の中で……」萬事この調子である。そしてそれを動かすべからざる絶対の真実のように信じている。それはまだ好い方で、しまいには私には全く判らないことを言い出す。坊やが死んだと言う事は、私にも智子にも、そして姉には最大の打撃だったのである。その夜は湯ざましがなくなった。水で我慢してくれと言っても、さっきの小島さんの話で生水は絶対にいけないと言ったからとて頑としてきかない。とうとう暗い室内の各寝台をまわって湯ざましを貰って歩いた。

 もう起上がる力はない。寝たまま便をとるようになった。

 坊やの枕下には茶碗にたてられた一本の線香の煙がゆれている。あれ程いっぱいだった戦災者の寝台が歯が抜けたようにポツンポツン空になっている。家の三人もはじめ一つのベッドだったのがもうこの二、三日は三台を占領したけれど両端はまだ空いた。その坊やも今夜は白い布をかぶっている。だがお通夜をするには私はあまりに疲れていた。眠らないつもりでは居たが姉の横にいてもどうしてもこらえられなくなった。両手であおぐ団扇が知らぬ間にボトリと落ちている。お線香の消えぬ間にと盗むようにして眠るがすぐ目が覚める。線香が十五センチ程燃えていた。しばらくして、又同じ位寝た。その夜もそれっきり、一睡もしなかった。もっとも姉がわるくてつききりではあったが、翌朝七時頃でもあったろうか、智子に何かしてやっていると姉は自分で用便に立った。昨夜から起きられない筈なのに、しかもいつもとは反対向きにしている、終って立った拍子にドウとばかり智子の寝台に倒れかかった。驚いて駆けつけると目はランランと光り、苦しげに肩で息をしている。起そうとすると、「苦しい、一寸待って!」それさえも口がきかなくて言葉がはっきりしない、何か言おうとするが聞きとれない。「口がきかなくて、はがいい」と言う一寸たって「さあ起きましょう」と言っても、自分で倒れたことは判らない
 「ここはどこなの?」「智子ちゃんの寝台よ」「?……」起してやると不思議そうに見廻して「ほんと私のベッドはないのね!」かかえるように戻してやると、うつぶせにベタリとくっついた。
 起してやるとうつろな目を見ひらいて、何か言うけれど殆どわからない。智子が「和子姉ちゃんは夕べも御飯を食べていないし、今日も江川へ移されると言うから早く今の内に朝御飯をすませておきなさい」と言う、姉の顔から殆ど目を離さず、一パイも食べたろうか。
 様子がおかしい、近よって見たときは、もうすでに意識不明になっている。瞳孔が大きくなっている。いくら声を大きくしても、もう何とも言わなかった。ただ瞳孔だけが、だんだん大きく開かれて行った。最後に臨んだ姉は何を言い何を残さんとしたであろう、物言いたげな目、何を言わんとして、遂にききとれなかった、さっきの言葉……最後を医者に看られたいからと言って神城へ行くことも浦上へもどることも一人で反対して江川病院までも行こうと言った姉。
 その最後は遂に私一人に看られて、ドサクサの一戦災者として……八月一〇分最後の息を引いて行った。

 美しかりし、優しかりし姉、寮の面会にも、街を歩くにも、友達にも、羨やまれ誇らしかりし姉、露を含める蓮の明けやらぬ池の面に大きくふくらみしまゝに散ろうにも似て……
 一夜の中に智子一人になってしまった。逃げ支度である。二人は焼かねばならぬ、でもせめて死顔だけは父にも見せたい。何度も何度も海に出、道に出て見るけれども父はやって来ない。姉と殆ど同じように進んでいた博子も今日あたり死ぬであろう。午後三時担架が来て二人は焼場へ運ぶことになった。

 痩せてほりふかくおそろしいまでに美しく見える姉、坊やの傷口は大きく口を開いて耳からはまだ膿が出ている。しかし、眠るというにはあまりに崇高な姿である。
つみあげられた薪の上に寝かせられた二人、この時になってもまだまだ死んだような気はしなかった。姉ちゃん、宏ちゃん、さようならごめんなさい、私が充分看病出来なかったものだから……ごめんなさい、ごめんなさい。

 火が燃え出した。蒼い足の裏を焔がなめる紫の煙が夏山の緑の中に消えて行く、もう見て居られなかった。煙と共に二人は上って行く、青空に消える煙の中に二人の面影は大きく高く上る、上る、二人一緒に手をつないで焼場の石垣の石の一つ一つが人間の顔に見え出す。
 苦しんでいる。折重なった人間、人間、人間上向き、右向き、下向き…苦しげに、うめくように、叫ぶように……一通り終って帰る事になった、青波、高岩の外海の山懐に淋しいでしょうけれど、今夜二人で居て頂戴明日は又お迎えに来ます。

 寮の所の角で見た人の後姿が姉のようでドキリとする、夕方吉田さんに行くのに、子供の泣声が坊やの声に聞える。残りの二、三人の者も病院を出ることになった。担架の人が揃わない。
 智子は米兵が来るというので特に神代行きを急いでいる、父からお使いがあって島にいよと言う、二十一日夕方やっと豊部隊に移る。
 その夜肉入の団子汁がおいしそうで食べたいと言うので少したべさせた、この二、三日お腹はゆるんで居るが悪い程ではない。栄養物をとらせて少しでも元気にしたい気もあった。しかしテキメンに智子は苦しみ出した。その夜は下痢、嘔吐で殆ど一睡もさせなかった。今まで殆ど平穏だった智子の事で苦しみも大きかったが驚きは更に大きく二人死んだばかりであるので智子も此の夜はっきりと自分の死を決した。苦しみのために幾度もふりほどきつつも掌を胸に組んだ。
 「出してしまえばなおるから大丈夫」と言っても承知しなかった。
 「それなら死んでから組ませてあげる」といっても、どうしても自分で組んでいた。朝になってやっとおさまった。その頃から髪が抜けて枕辺に散り、昼過ぎに気がつくと胸から腕にかけて青紫の班点が一面に出ている。せいぜい五ミリ位までのホクロのようなものでだんだん増えるようである。「何だろう」「蚤の吸口が、病気でそうなったのだろう」と言う人があった。

 午後になって、はぐきに血の黒いかたまりがついている。とってやると又いつのまにかついている。
 父が持たせてよこした馬鈴薯でスープでも作ってやろうかと思うが、昨日のことがあるので今夜はよして翌日にする。

 重湯だけとって(その頃は終戦後で人が居らぬため飯のみ)いざ飲ませる時になって鼻血が出だした。少々のことでは止まらない。だんだんひどくなって鼻から口からガボガボ出る、梅干のようなかたまりが鼻にひっかかる。口から出る。受けてやった弁当箱がすぐいっぱいになる。チリ紙は洗面器いっぱいになった。医者は帰って居ない、看護婦に言われたようにしても止まらない。
 十時頃やっと看護婦が来てくれた。注射2本しても止まる様子はない。一晩中出血して(夜は少量ずつ時々ガボッと出る)六時頃又看護婦が来て注射、血は弁当箱にこびりついてはなれぬ位濃い、昼頃やっと医者が来た、「頭に傷があるだろう」なる程この二、三日痛がっている大豆位の傷が頭の真中にある。この為に脳から出る血で止まらぬと言う。又注射、もう駄目である。昨日昼頃発見した大腿部の径一寸くらいの「とこずれ」は今は後中央から腰骨のあたりまで拡がって、すっかり皮がはげ、苦痛を訴える右頬から皮がむけた。耳たぶも皮がむけてあっちこっち痛いところだらけである。

 「今、先生は死ぬとおっしゃったね」「いいえ、注射したからもうすぐとまるって」「いいや、死ぬとおっしゃった、私はちゃんと聞いた」「どうせ死ぬ人に誰が注射するもんですか、助かるからこそ注射もするのよ」その死に面した姿は極めて静かであり当然来るべきものを待つと言う風であった。幾年もの修養を経た悟りきった人とも思える静かな表情で掌を胸に組みつつ、つぶやくように家で死ねば静かに死ねるのに、お父ちゃまに会いたい、お母ちゃま、博子姉ちゃん神代に行きたい。姉ちゃんはつれて行くと言ってとうとう連れて行ってくれなかったね。等々今こそ人生の幕を閉じんとするのを希いともなく歎きともなく、お母ちゃま姉ちゃんも皆な一緒に行くね…
 博子姉ちゃんはもう死んだかしら。
 お父ちゃまはどうして来て下さらないのかしら
 先生もお友達も沢山死んだね。

 夢みるように、わづか十二才の子にかくも従容たる最後をとげられるものであろうか、「鏡を見せて……」「さっき隣の小父さんに貸してあげたからないわ」「いや、その辺にあったから見せて」抜けたみだれた髪、やせこけて皮のはげた頬をつたう血を見て、悲しげに何にも言わずに鏡をおいた。あわててふいてやっても「さあきれいになった」と言ってやっても、もう再び鏡をとろうともしなかった。

 「足がしびれて来た」
 「寝ちがいでしょう」
 副木を当てて殆ど仰臥のままの病人に寝ちがい等ある筈がない。あわててさすってやる手に「しづかに」「さすって、くれるな」と言う。
 「胸が苦しくなった」又制せられて、なすすべもなく、ただおどおどと顔色を見るばかり。
  時々、「苦しい、苦しい」
 「お母ちゃま、お父ちゃま」等と小さく叫ぶように求めるように言いながら次第に意識を失って行った。

 瞳孔は刻々に散大して行く。脈は薄く間遠く。午後一時二十分、遂に最後であった。やっぱり手を胸にとったままで身体をふき足の繃帯を解くと、蚤が一匹飛出した。最後まで智子の血を吸い智子を苦しめた蚤。
 副木を取ると大腿部上の三分の一の所で右足はグニャリと内にまがった。こうして最後の一人までも、とられてしまって呆然として戦災地にもどったのは二十四日であった。

  未整理のまま
  小さなる己が命だにえ堪えぬや
  眠るが如く息の消えゆく。
  刻々にまなこみひらき うつそみの
  息ひかんとす 苦しみもなく。
  ほゝずりて我が呼ぶ声も大いなる
  いのちの時をとむるすべなし。
  母とだ言はで死にゆく幼児の
  あきらめ心 かなしかりけり。
  吾が母はいづこにや在す幼きが
  我にすがりて今は絶ゆるを
  うつそみの運命の時しまつがごと
  己が掌組みて死にゆける妹
           (和子、大村にて)

 八・九日 十一時頃空襲解除になって授業が始まった、もう終りに近い。
 ピカッー二、三分たってドヮーン、直撃弾!
 あゝこのピカドンこそ私の運命を大きく転回させるものであろうとは
 夕方から種々情報が入るが家がその惨劇の中に居るとは思えない。

 一〇日 朝から大村へ運ばれた戦災者を見に行って駅に死体を見ておどろいて帰る。
 西川病院に行って高女後輩に逢い種々話する。家もどうやらだめらしいあわて出す。

 一一日 やっと帰れるようになった。
 長崎に男子部生徒を看病に行き明朝家へ帰ることにする。
 汽車に乗るにも気をつけるが家の者らしい戦災者には逢わない。どうしているだろう。
 その夜一晩看病するが家の事が何か他人事のようにしか考えられない。皆などうしている のだろう。

 一二日 長崎より二里半の道を歩き始める。汽車は空襲はげしくして乗れない。道々戦災者に逢う、着物は殆どやぶけて半裸の人間が杖にすがって来る。顔や手足がウジャウジャけた人間が来る、わずかのガラクタと一緒に車の上であえぐ連れの肩にぶら下るようにして来る。水源地をまわる頃から家の被害が目につき出した。瓦がバラバラになって桧皮がたれついている、だんだんこわれかけ、かたむきかけ、いよいよ半つぶれになって来た。

 山をまわってパット眼界が開ける。オ、これが長崎
 真正面に岡町の住宅地の山が真赤に裸で横たわる。段々に仕切られた山の赤さは痛々しい右手に師範学校部の鉄筋、三菱電機兵器の鉄骨がアメン棒のようにグニャリと曲っている。

 一定毎に道は悪くなった。
 赤一色の瓦礫の町、焼木一本残さず焼きつくされた街々には瓦が赤くただれ、見まわす山々にはすべて赤一色に焼けつくされている。道も見分けがつかぬ。
 どうにかこうにか裏道を探し出し橋の落ちた川をヂャブヂャブ渡っていくと生臭いような気がする。
 フト振返ると右手の崖下の芋畑に黒焦げの死体がころがっている。
三つともブクブクにふくれ上って蔓も葉もない芋畑の畝の間にはさまるようにころがっている。
 生き馬が目から膿汁を出し全身に火傷し地図のように皮がはげ風が吹けば倒れそうな心細い姿で立っている。山を切って作った道を行くと両側の崖に嘱られた壕の中に・・…髪ボウボウの人間が目だけをギョロツカセている。暗い中に目だけが光っているようで総毛だつ、何か食べているらしい口の動きもすざましく傷のために顔は妙にはれ上っている、血だらけの布団にくるまって死体がころがしてある。つぶれた家の下から足がニュッと出て居る四肢の焼けとれた人間が白蠅のような色をしてころがっている。骨だけが……

 神学校の下からいつもの散歩コースに入る悲惨とも凄惨とも言葉はなかった。これが長崎、死の町長崎、否、死以上、言葉以上の町、曽っての日の夢の町、詩の町、美の町、あゝ今赤一色

 赤とはかくも荒漠たる色であったろうか。
 この道、この岡、この辻、あのねむの木
 すべても夢も歌も破壊しつくされた長崎、御堂の下から本屋町をまわるともう家が見えた。というより家らしい所までも見えて来た。涙をはらいもせず駆けて行けば案の定石垣のみでなにも残っている様子はない。父らしい声がする。メガホンで何か叫んでいる。
 「お父ちゃま! お父ちゃま! お父ちゃま! お父ちゃま! お父ちゃま!」五回やっと通じた。
 「オーイ、和子か!」
 「姉ちゃんが帰ってきたぞ!」皆生きている!防空壕からぞろぞろ出て来るだろう……声と涙とがごっちゃになって走って行くのに誰も出てこない。やっと博子一人ボーッとして幽霊のようにヨウヨウ出てきた。皆は?動けなく立上ったままいる。
顔ははれ上がり、櫛を入れぬ髪を乱したまま鼻下に一本みゝずばれをつくってやがて博子は出て来た。

 母の行方不明、明子の死と三人の収容された事を語る博子はなお四人の命の恵まれた事を感謝していた。父は泣いて来ては家に入れぬとどなっている。屋根と床(?)とか戸板一枚づつの小屋に坐って昼食をすました。

 一家八人
 父、母、姉一人(文子)自分(和子)妹三人(博子、明子、智子)弟一人(宏)

 羅災当時、父、米機B-29、原子爆弾による攻撃目標なりしも、曇天にして照準誤りの為爆弾目標を外れて被害を免れたる所の造船所に出勤中、被害は直接にはなし。母、隣組の貯金事務の為、爆心より二〇〇~三〇〇mの銀行へ出かけて居り行方不明、死体も未だ不明。
 和子、大村の女子師範学校に在学中にて直接被害を免れる。
 文子、博子、明子、智子、宏死亡

(聖三一教会)

  ◆次のページ「出版に際して(陶山茂)」

〒850-0003
長崎市片淵1-1-4
Tel: 095-826-6935
Fax: 095-826-6965
牧師: チョ ウンミン
事務スタッフ: 荒木真美子      竹内洋美
音楽主事: 嘉手苅夏希
ゴスペル音楽ディレクター:
     中村百合子

第一礼拝:毎週日曜日9:00am

第二礼拝:毎週日曜日11:02am

賛美集会
毎月第三土曜日 3:00pm

English Service (英語集会)
Sunday 5:00pm

祈祷会:毎週水曜日7:30pm

その他の集会につきましては
教会までお問い合わせ下さい